かの一行の果羅の旅
今月末に「弱法師」を勤めますので、「かの一行の果羅の旅」について考えてみたいと思います。
「平家物語・巻第二」では「一行阿闍梨之沙汰」、「源平盛衰記・保巻第五」では「一行流罪之事」として同様の記述がなされています。
玄宗皇帝に仕えた使えた僧・一行は、玄宗の寵妃・楊貴妃との不適切な関係を疑われ(疑われる過程は「平家」と「盛衰記」で異なる)、果羅国へと流罪になります。果羅国へは天子の通る「林池道」、雑人の通る「幽池道」、そして罪人の通る「闇穴道」という三通りの道があり、この「闇穴道」は七日七晩日の光を見ることのない暗黒の道だというのです。
しかし一行の流罪は、謂わば冤罪です。高僧・一行の無罪を知っている天が、九曜星となって輝き、闇穴道を進む一行の行く末を照らし、導いたのです。一行は慌てて右手の小指を食いちぎり、その血で衣の袂にその九曜星を描き留め、これが九曜の曼荼羅の始まりとなったというわけです。
「平家物語」と「源平盛衰記」では、記述に若干の差異があり、この点については駒澤大学のWEB上で公開されている論文「一行阿闍梨流罪説話の考察」(水原一氏著)に詳しいので、ご興味のある方はこちらをご覧下さい。
どちらの物語も、「天台座主・明雲の流罪」に関して、「唐の昔を尋ねるに…」という形で、高僧流罪の類例を引いている訳です。
これを能「弱法師」では、俊徳丸が人の讒言により「無実の罪で家を追われる」という身の上に、一行阿闍梨の例を引き、そして「闇穴道」という暗闇が、「盲目」という境涯に、「九曜の曼荼羅」に導かれるように、「四天王寺」へと導かれて行くという具合に、重層的に投写されていると考えられます。
さて俊徳丸の「冤罪」とは何だったのでしょうか?
これは能の作品の中では語られず、謎のままです。
ところでこの一行上人、大変な美男だったようで、その凛々しいお顔は、空海が唐から持ち帰り、東寺に収蔵されている真言密教の「五祖師像(国宝)」に描き残されています。
しかしながら一行上人は、西暦727年に没しており、この年楊貴妃は9歳で、未だ入内前ということになり、史実では一行と楊貴妃は接点が無かったことになります。ですから一行上人には、濡れ衣も濡れ衣で、「端からそんな話しは無かった」というオチがつきます。
一行は45歳で没した時、玄宗は哀哭して朝政三日停止したといいます。それほどまでに一行を信任していたという現れでしょう。


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